2.10.12

新生サンローランと「7人の女」

今日、エディ・スリマンによる、イヴサンロ…じゃなくてサンローラン・パリのコレクションが発表されました。

もともと「好きなものに興味がある」というのがデフォルトの私は当然のごとく全然ファッショニスタではありません。好きな音楽がある、好きなアーティストがいる、好きなデザイナーがいる、好きな作品がある。それに向かって意識は動きます。だから「音楽が好き」「ファッションが好き」「写真が好き」「映画が好き」…もちろん「美容が好き」なんてとても言えない。いや、言うことはあります、もともとファッション写真が好きで〜とか、音楽が好きなんで〜みたいなことを。でも本当は全然そんなことないです。ファッションのなんたるか、写真のなんたるか、音楽のなんたるか、全然知らないです。


と、保険のように前置きしておいてアレなのですが、エディのサンローラン、個人的には非常に残念な…というか退屈なコレクションでした。サファリとかスモーキング、そういったYSLのアイコン的なものにエディのロック節(グラム寄り)のっけましたぜ、エスプリでしょー? という印象を受けました。Tweetもしたけれども、アーカイブのエッセンス+自己表現みたいなコレクションは今あんまり見たくなかったかも、て感じです。もうこういうリミックス感覚は2000年代まででいいかなというか。


サファリ?




かつてYSL Hommeで素晴らしいクリエイションを見せ、その後活躍の場をテキサスのヒゲ眼鏡の彼に奪われたものの、Dior Hommeという新しいカテゴリー(といっていいと思う)に昇華させたエディ。そのエディが! ついに! サンローランの! デザイナーに! と鳴り物入り感ハンパない中で、このコレクション? みたいな。世の中的には絶賛の声も多いみたいですけど、こんなもんでいいのですか。いや、私は全然突飛なことや奇抜なことを求めているわけじゃない。でも、もう「アーカイブの独自焼き直し」みたいなクリエイションはいらなくね? と思ってしまう。

と同時に、私のなかには、エディに対しての「見たことのないものを見せてほしい」という気持ちが大きかったのだなーと思いました。ドラマのシチュエーションが揃いまくってるなかで、水戸黄門的展開を見せられた気分です。まーそれはある意味スタイリッシュと言えるのかもしれないけど。(ふて寝)


いっぽうで、数日前にラフ・シモンズによる新生Diorが発表されましたが、これはやられたと思いました。すごい思い切ったねー、みたいな。でも別に奇抜とかではないし、アーカイブのモチーフも入ってるんですよね。それでいて完全に「見たことのないDior」だった。そこにエレガンスを感じました。ラフであり、Diorであり、でもラフとDiorの過去のどこにもないものがそこにありました。ラフのDiorはエディのサンローランに比べて話題性少なかった気がしますが、個人的には拍手。



ラフでありDiorであり。しかしながら。という。



以前、どなただったか忘れてしまいましたが、マルタン・マルジェラについて「彼はエルメスと自分のブランドのクリエイションを完全に分けていて、まったく異なったコレクションを発表しているところが素晴らしい。そんなデザイナーはなかなかいない」みたいなコメントがあって。それすごく賛成なんですけど、ある意味ラフもそうなのではないかなと思うし、それができないのがエディなのかな、というのが今のところの印象でございます。


そして、このよーにいいとかよくないとか、ほんとに図々しく、偉そうにも思っている私なのですが、この基準ってどこから来るのだろう? と思います。誰々の新譜よかったねとか、今回のライヴ最悪だったねとか、そういうのを感じるセンサーみたいなのがあるわけですが、完全に自己基準のためうまく説明できない。でも絶対的なものがなんかあるんですよね(わからないものもいっぱいあるけど)。マトリックス化できる照合データのようなものが曖昧だし、いっときは不安に思っていたのですが、いつだかのmice parade来日のときに「あーもう自分のこの感覚信じていいんだな」と確信できたので、そこはそのようにしたいと思っています。

そして、どうしてそう思うのかを自分のなかで咀嚼するために私はこうしてブログを書いているのであります。
良かったもの、好きなものはひとに伝えたいのですが、いまいちだったものとか、好きじゃないと思ったものについて書くこともあり、それは人に伝える必要あんの? って感じですよね。そこは別に共有したいわけではないんですけど…思ったことは記したいという矛盾をはらみつつでよろしくお願いします。(宛先不明)


話がそれましたが、その「感じるセンサー」というものについて。
すごく上手に使いこなして、周りにもミラクルを振りまいているふたりの、素敵な個展に行ってきました。



絵、を操るよしいさん、香り、を操るスールネさんのふたりが、7人の女性ひとりひとりについての表現を交換しあった軌跡/奇跡が会場いっぱいにちりばめられていました。
私はふたりを知っているのでよりそう感じるのかもしれませんが、そしてありきたりの表現で恐縮なのですが、112じゃないね、っていう。お互いの良さを引き出しあうだけでなく、まだ見ぬ風景のところまで進める機動力や加速力を生み出す関係ってあるものですが、ふたりの組み合わせはまさにそれ。




香りの表現も7種類。これはルームフレグランス。この水墨画最高だった。






これも香り! 某コズミック少女がモチーフ。




スールネさんの香りは非常に信頼できます。





どちらも女性らしい直感力を持っているけれども、ちひろさんはヴァータにピッタが少し、スールネさんはカパにヴァータが少し、って感じですかね。だから混ざりあうと曼荼羅みたいに円になって、四方に広がるだけじゃなくて次元を超越していくようなパワーになる。しかも、いちいち周りを幸せにするエネルギーに進化していくというか。それが素晴らしいと思った。
絵も香りも、感覚的なものと思われがちだけど、実はすごく技巧的なものでもあって。その両方(ふたりの)がマックスで使い切られているからこそ、このようなものが完成するわけで、そこには「感じるセンサー」がフル活用されているのだろう、と思いました。ほんとに素敵な展示!


そこへいくと、エディの今回のコレクションは、1(エディ)+1(イヴ)=1(エディ)、って感じがした。ということなのだと思います。はい。




20.9.12

横浜美術館で見た、奈良美智の「変化」


Let’s Talk About ‘Glory’



奈良さんを最初に意識したのは、資生堂が出している花椿を見たときだったと思う。確か96、7年くらい。
当時の花椿は、表紙が大判を内側に折り込む形になっていて、開くと毎号誰かアーティストの作品が載っている仕様だったんですね(途中から自社広告になってしまいましたが…)。そこで見たのが最初で、えーとなんか作風リタ・アッカーマンに似てる? くらいの印象で。でも「ふーん」くらいにしか思わなかったんではないかと。
その後、横浜の有隣堂の美術書コーナーで「深い深い水たまり」を発見して、文章が一緒に綴られてるんで、あーこれは自分と戦ってる人だな、って好きになった、という経緯があり。
昔から言っているような気がするけど、私が奈良さんを好きなのって、自分と戦っている人だから。なのです。でも、ドイツでひっそりとひとりでやっていたのが、よしもとばななさんとやるようになり、そしてもちろんgrafの豊島さんとやるようになり、そのスピリットが共有され、またそのことによって科学反応が起こり、どんどん大きくなって。でも、基本はいつでもひとり。そういうところが好きでした。

しかし私はいつのまにか奈良さんを意識しなくなっていた、と思う。A to Zをピークに、なんだかわからないけどそんなに追うことがなくなった。Twitterのフォローもずいぶん前にはずしてしまって…。別に嫌いになったとかでは全然ないのだけど、奈良さんが今どんなことをやっているのか、そういうことが全然気にならなくなってしまった。

だから今回、すごく久しぶりに奈良さんの作品に触れた感じ。足を運ぼうと思ったのは、開催が横浜美術館だった、というのが大きいと思う。11年前に行ったときは奈良さん大好きの絶頂だったし、やっぱり私は横浜出身なんで。すごい久しぶりに親戚に会いに行くみたいな状態でした。

とはいえ、奈良さんから離れていた私は、最近の奈良さんの作風とか、どんなことを考えてものをつくっているかとか、そういうことがまったくわからず。NO NUKESのアートワークがTシャツになったり、プラカードにしてデモでどんどん使ってください! とTweetしていたとか、作品集にコピー作品が載ったまま出版されちゃったりとか(ありましたよね?)、そんなことくらいしか知らずで。

噂には聞いていたけど会場は激混み。すっかり疎遠だった私は、どんな人がなんで奈良さんを好きなのかということがまずあまり理解できず……という勝手極まりない疎外感みたいな精神状態。
最初の部屋はブロンズでまとまった空間だったのだけど、入っての第一印象は、とにかく「あー奈良さん、怒ってんなー」ってこと。どうしたって震災の影響が見られるものばかり。どの子も、おいお前ら、ふざけんなよ、って顔をしていた。
その後、かろうじてアトリエ部屋の空間があり(個人的には、これがお決まりの奈良スタイルなんで、一応やっときますね、みたいな印象を受けた)、その後はドローイングと油彩のオンパレードという、ごくシンプルな会場構成。どれも、怒り、悲しみ、憤り(そしてもしかしたら、諦め)の作品ばかり、と私には感じられました。
さらっと見て終わり、って感じの内容で、ねえねえ、みんな、この展示おもしろかったの?? と正直もやっとした感情を払拭しきれないまま。わー奈良さんさすがだなぁ、感動しました! とは全然思えませんでした。
11年前の横浜美術館や一連のAtoZと比較するとアトラクション感に欠けるからつまらない、とかいうことでは全然なく。

いちばん印象に残ったのは「Let’s Talk About ‘Glory’」という作品で、それなりに長い通路の正面にどかんとある油彩なんですが、テーブルの向こうに女の子(あるいは男の子、結局のところは「自分」)が座っていて、睨みきかせてこっちを見てるんですね。これって「栄光ってものについて、さあ語ろうか」ってことでしょ。お前らが今まで大切にしてきた、金とか経済の繁栄とかよー、そーいったくだらねえ(武勇伝的な)ことについて聞かせてもらおうじゃねえか、ってことでしょ。大切なのは人命じゃねえのかよ、古い考えでこれからもいくつもりなのかよ、っていう。

なんか全体的にそういう雰囲気なんですよね。会場全体が。
お前ら(体制、政府、国、といったこと)ふざけんじゃねえよ、っていう。
それにめちゃくちゃ違和感があって。
もちろんパンクって反体制ってことでしょ? という意識が私にはありますし、拳突き上げていこうぜ、ってのは全然構わないんですけど、私が奈良さんを好きなのって、自分と戦ってるというところなんですよね。昔から。いつでも筆一本でスタート地点に立ってやるぜ、みたいな。

震災後色々ありました、もちろん。許せないこと、不条理、変わらない矛盾、おかしいシステム、そんなものの露見がいっぱいある。でも、そのなかで「自分と戦ってる人」っていうのは「お前らのここが悪い!」っていう「裁く」姿勢に、果たしてなるだろうかと思うんです。やっぱりどこか「奈良さん、いつからそんなに偉くなっちゃったの?」っていう印象を持ってしまう。

ドローイングなんかに描かれてることは基本変わってない(HEY HO, LET’S GOとかNEVER FORGET YOUR BEGINNER’S SPIRIT、もちろんNO NUKESなど)のだけど、いやいや、スピリット変わってねーか? みたいな。いや人間変わっていくのが普通だし、それが成長なのだとは思うんですけど、うーん、なんというか、どうなんですかね。

でも、今の体制にダメ出ししたとして、じゃあ奈良さんがシステムを作れるのかっていったら難しいところなわけで(性質的に)、それを本人もわかっているから葛藤があるというか、そういうのも作品には出ていたような気がします。だからすっきりしないんじゃないかなと。余計。

「いつでも筆一本に戻れるぜ」だからこそ子どものこころにも響くわけで、そういうところで勝負してほしかったな、と思ったり。そのうえでもちろん反体制というか。あたらしい考えかたでいかないといけないんじゃないのかなぁ? 「善/悪」みたいな分けかたって古いし危険じゃね? その時点で自分も「Let’s Talk About ‘Glory’」て言われる側じゃねーの? と私は思うんですけどねー。どうなのかなー。

こんなどうしようもない世の中で、どうやって生きて行く? っていうのが大切なわけで、そこがあまり感じられなかったですね。まぁ今後の展開に期待って感じで。いやいや奈良さん、アンタこんなもんじゃないでしょー! みたいな気持ちです。

あ、あとから今号の美術手帖見たら表紙が「Let’s Talk About ‘Glory’」だったので読んでみよかなと思う次第。でも昔ほどインタビューとか熱心に読まなくなりました。時間がなくなったのかなー。でもAKBPVは見てたりする。

16.9.12

AMATAというサロンが好きな理由





今でこそ、ヘアスタイリストとメイクアップアーティストがそれぞれ別の人、なんていうのが当たり前になったけれど、90年代の日本では、まだまだ「ヘアメイクさん」が一般的。メイクアップアーティスト志望だけれどヘアにまったく興味がない(言い訳)、といった私には厳しい時代だったのです。
私の進路や時代についてはどうでもよくて、何が言いたいかというと、私はヘアスタイリングに圧倒的に興味がない、という話です。
すごく不思議なんですが、昔からメイクはとても面白いし、色々な表現が好きなのに、ヘアになるととたんに食指が動かず。好きなスタイルも決まりきってて昔から全然変わってない。ある意味すごくコンサバだったりします。

でもだからこそ、そのごくごく狭いストライクゾーンにハマる美容師さんでないとだめで、いろんなサロン行きましたが、再訪なしのところはゴマンとあります。
不思議なもので、こういう写真家が撮るこういう女の子のスタイルが好きでさー(例:ユルゲン・テラーの撮るアニー・モートン、イネスの撮るジェシカ・ミラー等)と伝えたとして、それがドンピシャに伝わっても、その通りに切れるとは限らないんですよね。って顔が違うから当たり前だろと言われそうですが、そういうことじゃなくて、そのスピリットを私にスライドして注入できるかどうかが仕事でしょ?(逆ギレ)と。だって現にそれが出来るスタイリストもいるんだもん。その違いって何なんですかね。相性と言ってしまえばそれまでなんですけど。

もう一生こういうのが好きと思われる


ここ15年くらい、ネットとかSNSやってるとよく思うのですが、好みとか趣味とか感覚とか、そういうものをシェアできる人って案外結構イルンダヨネー。killieとバカ姉弟とインゲ・グロナールと大島弓子が全部バッチリハマる、というのはさすがに希有ですが、ビキニ・キルとイネスとボリス・ヴィアンの組み合わせなんてもはやAKBくらいにマジョリティなんではないかと思わせるものがあります。いや、マジで。
でも、その同じ嗜好の人たちが合わさって何かをつくろうとしても、いいものが出来るとは限らないというか。シェアできるから過信するしちょっとした違いが出たときに致命的になるというか。そういうのはあるよなーと思ってます、常日頃。もちろんうまくいく人だって沢山いるのですが。


前置きが長過ぎて失礼いたしました。というわけで、美容室ジプシーがデフォルトな今日この頃だったのですが、この12年くらいはAMATAで落ち着いております。私のよーな庶民が足を踏み入れていいんでしょうかっていうラグジュアリーなサロンなのですが、私はここへ来て、今までの「サロンなんて美容師との相性がすべて」と思っていた自分が猛烈に恥ずかしくなりましたね。

AMATAというサロンは、お客様が完璧にそのひとときを堪能できるように、めちゃくちゃ考えられています。超人気店のはずなのにせわしなさがなく、あるのは心地よい躍動感とリラックスできるムード。かならず深い満足とともにサロンをあとにします。
よく売れっ子のスタイリストがつくと、ちょっと相手をされては待たされ、ということがありますが、ここはまったくナシ。お客様が一切のストレスを感じないように、導線やタイムテーブルが考え抜かれているのです。

大きな窓からいっぱいに日差しが入り、パリッとした清潔感が美しい白を基調とした店内には、フレッシュな洗練の花が必ず飾られています。そこで受けるヘッドスパは至福の一言。本当に時間を忘れるとはこのことで、1時間くらいかと思ったら3時間くらい長居していたこともありました。

毛髪診断士であり、ビューティプロデューサーであり、実はイラストレーター(しかも元ファッションデザイナー)でもあるというマルチな活躍っぷりの美香さんが、言わずと知れたここのオーナーなのですが、ホスピタリティとバイタリティにおいて、他の追随を許さないかたなのです。
とにかく、お客様やスタッフに対する気配りがハンパじゃない! そしていつも完璧に美しい! サロン外の仕事もありまくりのはずなのに、いったいいつ寝ているのだろう…そしてどうやってこの美貌をキープして(進化させて)いるのだろう…というのは日本の七不思議くらいにエントリーしてもよいかもしれません。ほんとは5人くらいいるのではないだろうか。

AMATAには、こういうスタイルが好きとか、こうしてほしいといったこちらの意向を明確に説明しなくても、淑女がすっとハンカチを差し出すようにやさしくしっかりと汲み取って、期待以上のものを返してくれる場所、というイメージがあります。それはひとえに美香さんの人間性なんですよね。といつも思います。
仕事ができる美しい女性というのはたくさんいるのですが、スタッフを束ねて理念や技術をシェアし、育てていくそのバイタリティは相当希有なものだと思います。(もちろんよい意味で)こだわりがしっかりとある美香さんなのですが(それはAMATAのサイトにもあらわれています)、そのレベルが高すぎて完成されまくってるんですよね。それをうけてスタッフも、美しく素敵に育っていくのだろうな、と毎回感動しています。


今回新しく導入された「ELEMENT6」というトリートメントを体験しましたが、これがもうスーパー素晴らしい! その名の通り、ヘマチンやポリフェノールなど6種類のカクテルをカスタマイズして、スーパーダメージヘアに浸透させるというもの。その際、赤外線と超音波を発するREMEDYというノンヒートアイロンとナノスチームを使い、髪の深部まで送り届けます。
もともと混ざっているのではなく、6種をその場でカスタムしてブレンドというのがポイントですよね。比率の調整ができるのはもちろんですけど、ひとつひとつのエレメントの純度が高い状態で髪が吸収できる、というのがデカいのではないかなと思います。今までのどんなトリートメントとも異なる、信じられない仕上がりでした。

微妙な自撮りで恐縮ですが、ツヤ、ハリ、コシ、手触り、すべてにおいてパーフェクト!



美香さんのホスピタリティとバイタリティは、手がけられた商品にも随所にあらわれているのですが、長くなりますのでその紹介はまた別の機会に。

25.8.12

映画「おおかみこどもの雨と雪」の不協和音





いまさら観てきました。
ストーリーについては、一切の予備知識なしで観ました。「おおかみこどものナントカカントカ」という、タイトルすら覚えていない状態。ひとつだけわかっていたのは「サマーウォーズ」の人の映画、ということだけ。
個人的には「サマーウォーズ」好きなので、結構期待して行ったんですけど、なんともいえないもやもや感の残る映画でしたねー。

いちばんは「結局この映画はなにがいいたいのか」が全然わからなかったなー、と。
おおかみおとこ、おおかみこども、そういう存在をファンタジーとして描きたいのか、ドキュメンタリーとして描きたいのかというのもよくわからない。母親が子どもを育てながら自分も成長していく過程を見せたいのかな? とも考えたけど、母親(母性)の描写は結構薄っぺらいように感じたりして。決断することの大切さ? 愛というものの素晴らしさ? 前に進まなければならない人生における変化の重要性? どれもこれも、まったくもってピンと来ない、本当に描きたかったことはハテなんなのか、というのが最後までわからずじまいでした。

この映画を観て、みんなどう思うのだろう。
希望をもらうのか、勇気をもらうのか、救いをもらうのか、どうなんだろう。
私はそういったものはなにももらうことができなかった。それは「この監督とは考えが合わないな」というようなすがすがしいものではなく、繰り返しになるのだけど「で……結局なにがいいたいんだっけ」がわからないから、ということにつきます。

それは、はっきりいってしまうと、今この、わたしたちが生きている2012年夏の日本と、この映画の世界観に若干のズレがあるからなんですね。と私は思います。
時代設定の話ではないです。今の私たちが直面している(あるいは人間というものが古代から繰り返し直面してきた)問題と、この作品の内容が全然リンクしないんですよね。この映画はなにも解決してないし、なにも問題提起してないーーと感じてしまいました。もちろんそんな映画はたくさんあります。でも、それはそもそもそこで勝負しているわけではないからであって。この映画はそれでよろしかったでしょうか? というのと、じゃあかわりに何が残ったかというと、そこに戸惑うばかり、なんですね。
つまり、全然リアリティがないということなんだけど。一見家族の感動物語かもしれないけど、母性ってこんなもんじゃない。成長ってこんなもんじゃない。そして、ひとの人生というものはこんなもんじゃない、という想いばかりがつのりました。
特に母性というものは、今のこの時代に世の中でもっとも必要とされているエネルギーのひとつだと思う。それをこんな表面的に描かないでほしいぜ、という感じです。

普通に、家族とか子どもとか動物っていうモチーフは涙を誘うものだし、じーんとするシーンがないわけではない。でもそれはひとコマでしかないんですよね。それと同じくらい白けてしまうシーンもありました。なぜかというと描写が雑だからなんですよ。全体を通して省略されている箇所があまりにも多く、それがこころの描写だったり、精妙な意識の移り変わりという、いちばん描かなければいけないものなんでないの? と思うようなことだったりする。

登場人物の個性がまったくたってこないので、共感できない、感情移入はもちろんできない、でも嫌いになることもできない。出てくる人全員がそうなんですよね。初めて出会うような強烈なキャラの人もいなければ、ああ、こういう人いるよねっていう実感がともなうわけでもなく。それはなぜかというと、そのキャラがタペストリーでできているからなんですよね。いろんな要素のみで。
だからシーンごとに「じーん」とか「いやそれはないっしょ」が浮かんでは消えるだけ。という印象を持ちました。

一緒に観に行った美女もいってましたが、いろいろ詰め込み過ぎて薄まった感というのはあるかもしれない。せめてファンタジーかリアリティのどっちかを追求してほしかったなー、みたいな(その両立ができている作品も世の中にはある、がこの作品はそうではないので)。

ただアニメーションの技術、音楽の素晴らしさ、そういうところはもう本当にすごかった。雪山を走る躍動的なシーンや、風景の描写などにはただただ感動。今の映画ってすごいんだなぁ、と。
あと、この作品には「部屋に飾る花」の描写がたいへん多く出てくるのですが、その設定がとても丁寧で非常に好感がもてました。

エンドロールを見て、あの人もこの人も関わってるのかースゴイなーとボーゼンとしてしまいましたが、スタッフの豪華さと細部に目がいってしまう点で、そして結局のところ、いまのこの現実との大きなズレを感じてしまうという点で、そしてそして、観たあとにあーだこーだと考えてしまうという点で、「おおかみこどもの雨と雪」と「ヘルタースケルター」はとても似た映画だなーと思いました。

ちなみにアーユルヴェーダでは、母性とはすべての女性が持つ才能で、それを発揮させることで自らも成長していくし、対象は自分の子どもとは限らない。母性とは他者の才能を120%引き出してあげる才能のことだ、といっています。
というわけで、子育てしたこともないアンタが偉そうに母性について語るなよ、というお咎めはなしで。はい。

19.7.12

映画「ヘルタースケルター」、そして2012年の狂気とは




原作の漫画が好きというのは言うまでもなく、世代ですから、という感じなのだけど、蜷川実花さんが監督というニュースのあとに、岡崎京子さんの「原作に忠実に行うのも、演者の体内を通してどのように変貌するのかも、受け入れる準備は出来ている」というコメントを読んだので、そこにリスペクトが行ってしまっていたところがあります。
なので蜷川節とかアートワークがセンスがディレクションが世界観が、そういった話はあまり問題ではないかなーと。

というのをふまえて、さて、観ての感想です。


まず、岡崎さんは、ひとりの女性の狂気を描く人だと思っているし、確か本人もそう言っていたハズ。
でも、この映画に狂っているひとはひとりも出てきません。どうしてなのかな?と思うわけです。


細かくはいろいろあるのですが、大きくはふたつ。

ひとつは、このテーマが2012年に向いているものかどうかが少々疑問だということ。
美しさに執着し、全身整形してトップに立ついじらしい女の子のお話、なわけですが、はたしてこういう女の子が今メディアに登場したとして、全身整形なんだって!ありえない!!ってなるのでしょうか、というのが疑問。
全身整形なんてじゅうぶんあり得る2012年、なわけです。
全身整形そのものについては、原作の時代よりも今のほうがぜんぜんリアリティあるよなーとは思います。だからこそ、クリニックの存在や全身整形に踏み込む覚悟みたいなものが「とてつもないもの」にはなり得ない。そこに違和感がありました。技術的にも、精神的にも、もっと簡単に気軽にできるものなんでないのかなーと思ってしまう。だからどこかしらじらしい。原作を読んでいる(リアルタイムで)私はもう、初見で接することはできないわけで、今の若い子たちはこのテーマをどう見るのかな、と思ってしまいました。


もうひとつは、原作への忠実さ。
蜷川さんは、きっと、本当にこの原作が好きなんだろうなというのが痛いほどわかりました。ヴィジュアルや世界観などの「蜷川的なところ」を省いて見るならば、そこにはよくも悪くも原作がどん、と鎮座していました。
かなり忠実に台詞なども再現されている、のです。(ここ小出裕章さんテイストで発音)
で、それが結構無理あるんだなー。ということに気づいてしまった。私は岡崎さんの漫画のなかでも特に「ヘルタースケルター」は映画のような漫画だなと思っていて、それはややミニシアター的というか、ヌーヴェルバーグというか、まぁなんでもいいんですけど、コマ割りとか展開のしかたがすごく映画っぽくて、そこが好きだったんですね。
でも、やはり岡崎さんの漫画の台詞というのは「文字」なんだな、と思いました。映像ではない、生身の人間が話すものではないのだなと。結局「詩」なのかなと。
いちばんそれを感じたのが大森南朋なんですけど、彼の扮する検事はどちらかというと若き日のオザケンのようなーーなんかこうちょっと無機質で、結局、こんなキャラ実在しないよね的な男性なんですよね。そういう人は「ようこそ、タイガー・リリィ」とか「僕の子猫ちゃん」とか「ごめんねハニー」みたいなこと言っても普通なんですけど(この台詞が劇中にあるわけではないです、イメージね)、生身の人間が言うとやっぱりちょっと無理あるなぁというか。別に言ってもいいけど、お芝居になっちゃう。そこはリアリティ持たせるために工夫してもよかったのではないかなと。大森南朋は演じるの大変だっただろうな、と思いました。

唯一原作と大幅に違うところが寺島しのぶ扮するマネージャーのキャラで、この人すごく不思議でした。全然感情移入できないニュータイプ。漫画っぽいわけでもなく、生身っぽくもなく。いちばん人工的でリアリティのないキャラはこの人だったなのではないでしょうか(寺島さんの演技はお上手です)。

その割に、人間関係や感情は希薄に描かれていて。たとえば、原作では屋上でキンちゃんがりりこを説得する場面があるのですが、そこもうちょっとやってほしかったな、とか。場面は出てくるんだけど情的なものがあんまり出てこないんですよね。記号的なのは出てくるんですけど。セックス、暴力、ドラッグ、叫び、涙、そういったものをカタチとしては見せるけど……というか。音楽がこれ、映像がこれ、セットがこれ、衣装がこれ、そういったセンスはもう「受け入れる準備は出来ている」の言葉が印籠となって何を言うつもりもないんですが、PV的になってしまっているのは非常に残念で、そっちの方向で原作に忠実になられても困っちゃうなーという感じがありました。

最後のシーンもちゃんと描かれてるんですが、こーいった解釈ですか??? て感じで。これじゃアメリカ映画ではないの?岡崎さんのフレンチテイスト入れなくていいんですか?みたいなのは気になりました。


それから狂気のシーンはディズニーランドみたいで、やっぱりリンチの足下にも及ばないというか、日本のキッズ向けに作ったのかなぁ?ってなんかだんだん冒頭と矛盾したことを言いそうになってきたのでこの辺で。


それから、間違いなく沢尻エリカは命がけでこの映画に挑んだのだろーなーと思うし、実際すごくまじめな人なんでしょうね、この人。それが役にもぴったりだった。「持って生まれちゃった人」こずえ役、水原希子との対比はナイスキャスティングです。


DVDで観る価値はあまりない映画と、個人的には思います。ので、観たいかたはぜひ劇場で。

16.1.12

まさこちゃんの、わたしたちの、新世界





まさこちゃんの写真展が行われている。

その前から彼女のブログをちょこちょこ読んではいたものの、まさこちゃんと出会ったのは去年のこと。「写真家・中川正子の311以降」といった部分がすごく強いイメージだったので(詳しくは彼女のブログを読むとわかると思う)、実際会ってお話したときに、なんてきらきらした素敵なひとなんだろう!と感激したのをおぼえている。というか、名刺を出されてはじめて、え!?中川正子さん??と驚いたのだけど、実は。
会ったのはmurmur magazineのパーティだったので、その空間じたいが特別だったし、ばんばんいいエネルギーが流れてて、初対面なのにみんなで館岡先生のワークショップをやったりして。あれはおかしかったな。

まさこちゃんはまずモデルさんですよね?て感じの大変美しい容姿なのだけど、いつも明るくエネルギッシュで、まっすぐで、愛するものを大切にしている、とっても素敵なひとで、会うたびにいつも「まさこちゃん、好きだな〜!」て気持ちでいっぱいになります。

こんなことを言ったら失礼かもしれないのだけど、アウトプットされたものだけをポンと見て、「まさこちゃんの写真、いいよね~」みたいには、私は絶対にならないと思う。まさこちゃんがどんなひとで、どういう気持ちで日々いろいろなものに対峙して、どんな気持ちでシャッターを押しているか、そういうところもひっくるめて好きなのだよね。正直、写真じゃなかったとしても、私は彼女の表現を好きになっただろうな、というか。なんとなくそんな風にずっと思っていた。
今回の「新世界」、会場に入るとまずまさこちゃんの言葉がある。それを見て、ああ、やっぱり私が考えていたことは、間違いじゃなかったんだな、と思った(これはネット上にもあがっている文章だと思うけど、ぜひ会場で読んでほしい)。私は彼女じたいが好きなんだなって。

しかしその30秒後には、私は「写真というものでしかありえない中川正子」を目の当たりにすることになる。写真じゃなかったとしても…なんて考えていた自分を恥ずかしく思ったし、ほんとに、命がけでシャッターを押しているまさこちゃんがばしばしと伝わってきた。
常々、まさこちゃんが命がけということは感じていたのだけど、それはサイくん(今回の主役でもある、まさこちゃんの息子)や旦那さんという「守るべきもの」に対する、母親とか女性としてのまさこちゃんによるものというイメージを持っていた。必死で、覚悟をもって、人生をサヴァイヴしているというか。もちろん愛をもってして、なのだけど、強くないとできない、少し刹那的な…そういった感じの。

だけど、ぜんぜんそうではなかった。彼女の写真は…なんというか、世の中はすべて愛おしいものだということを語っていた。彼女の写真は(本来写真とはそういったものだけど)二度と訪れない一瞬をとらえるもので、それはほんとうにほんとうにその一瞬にしかありえない風景なのだけど、だからこそ愛おしい、とかそういうことではなく、変化していくことそれじたいに対する愛おしさ、がそこには込められていた。それはサイくんの写真であっても、花の写真であっても同じ。その瞬間を越えたら、それはもうそこにはない、それは儚いことでもなんでもなくて、それこそが生きているということであって、でもだからこそかけがえがなくて美しいのだ、という感じ。

もう時間がない、だから気づいて、とまさこちゃん(の写真)は言っている。目の前のものをめいっぱい愛することしかない、もう、世界は新しくなっているんだよと。
特に私は、咲き誇ったあとの花の写真や、水に自転車が沈んでいる写真が素晴らしいと思った。結局、人間は自然の一部だし、生きていること、変化すること、故意に飾ることや醜いとされていることまでも…なんでもかんでも美しいんだよね、というか。
すべてを受け入れて愛していると言えるひとは、実際にはどれだけいるのだろうか。でも、確実にいるんだよね。そういうことに感動してしかたがなかった。

311以降、なにもかもがかわってしまった、というひともいれば、結局のところなにもかわっていない、というひともいる。さらには、そんなこと考えたこともないよ、というひともいるかもしれない。別にそれは、どうだっていい。だけど私は「なにもかもがかわってしまった」と実感しているひとりだし、私の中の何かがすっかり違うものになってしまった感覚がある。それは絶望や嘆き、諦め、恐怖、そういったものではなく、かといってポジティヴという言葉ではどこかしらじらしい、そんな何かなのだけど。

まさこちゃんの写真を見て思った。
それは光なんだなって。

ぜひ、見に行ってください。21日まで!

中川正子 写真展『新世界』

2012
113日(金)— 121日(土)12:00-20:00
13
日のみ18時まで。
会場:valveat81   107-0062港区南青山4-21-26 2F   TEL 03-6406-0252

1.1.12

Live Fresh, NEW YEAR 2012




決して忘れてはならない2011年をこえて
まったく新しいことが求められる2012年
本年もどうぞよろしくお願いいたします

 AYANA