12.12.13

SUPERNATURAL LOVE.



念願の。
というか。
悲願の。

安室さんの「FEEL」ツアーに行ってまいりました。

安室さんは「PLAY」を出したとき、たまたま渋谷HMVで試聴&購入してからものすごくハマったのですが、ライヴは行ったことなかった、というかDVD観て満足していて、行くことはないと思っていました。
チケットとってくれた友人に感謝。しかも超アリーナでした。
やっぱこの間恥を忍んで「Can You Celebrate?」を歌ったから、そのご褒美ですかね?

基本的に安室さんに対する気持ちはこの頃と変わってないです。もうこのブログに全部書いてあるので、ほんとに自分は成長のない人間だなーと嫌になったりもするのですが。はい。
とはいえ、実は安室さん熱は「BEST FICTION TOUR」のあと——つまり「PAST<FUTURE」あたりから少しずつ冷めてきていて、「Checkmate!」はほとんど聴いてないし、前作「Uncontrolled」に至っては買ってもいないです(これ、ライヴ中に何度後悔したことか…)。今回のアルバム「FEEL」が私はほんとに好きなんですが、購入のきっかけはそれこそKUMADAさんの写真によるところが大きく、久々のジャケ買いだったんですね。や、「FEEL」はほんとに名盤だと思います。

なので、なにがなんでも行きたいというよりは、結構冷静に、行けるなら行きたいです〜みたいなテンションではあったのですが。
いくぶん俯瞰の目を持ちつつも、やっぱりその奇跡っぷりに感動。いや、ケイト・モスもすごいけど、日本には安室奈美恵がいるではないか!と思いましたねほんとに。いろんな意味でさ。

会場撮影行為一切禁止のため、開場前のトラックが撮影スポットに


会場は、TOKYO GIRLS COLLECTION振りに足を運んだ国立代々木競技場第一体育館。ステージは、ほんとにシンプルでした。歌と踊りをストイックに見せるための趣向が随所に仕込まれ、「BEST FICTION TOUR」時代のような大げさなセットは一切なく、映像とネオンが駆使されたかなりストイックな舞台装置でした。

8名のダンサーと共に、っていうスタイルは変わっていませんでしたが、「PLAY」時代はバンドスタイルだったオケが完全電子音になってました。というところにまずびっくり。それも、Emptyset顔負けのゴリゴリな低音なんですよ。え、ここメタモの会場ですか?みたいな。それでも上物はザ・エイベックス系ダンスミュージックの香りもありつつで、まぁEmptysetも車高スレスレのヤンキー車に積まれたウーハーも紙一重ってことなのかな?とも思いましたが。ちなみに客層はほとんどが女性で、みんなどこかヤンキーテイスト25%みたいな。カジュアルヤンキー。悲壮感のないヤンキー。もういいですね。もっと同世代いるかなと思ってたんですが、みんな若い!学生〜20代が圧倒的に多かったです。

で、セットリストなんですが今回の「FEEL」を中心に、新曲と前作「Uncontrolled」からの楽曲からがほとんど。というかそれが全てでした。昔のヒット曲とか全然やらない潔さがすごかった。ここまでのスターだと、サービス精神なのか媚びなのかわかりませんが、そういった理由から名曲をやったりしそうなものですが。「PLAY」時代は小室さんの曲とかも少々やったりしていたのだけど、きっぱりと「今の安室奈美恵、これですから」っていう内容だった。
FEEL」は全編POPではありながら、FOUR TETPOPというか、カラオケで歌いまくれるAKBのようなPOPさはまったくなし。でもそこはやっぱりライヴを前提に作られている楽曲という感じで、コールアンドレスポンスというか、演出含め、ほんと考えられてるなーと感心しきりでした。

個人的には安室さんの楽曲って「SUITE CHIC」以降(=小室さん脱皮以降)3つの方向性に分類できると思ってまして、
1:ダンス前提のアップテンポな曲(「Put 'Em Up」「Want Me Want Me」「Naked」等)
2:ガーリーなポップチューン(「Girl Talk」「WoWa」「Hello」等)
3:聴かせる「イイ曲」(「Baby Don't Cry」Wishing On The Same Star等)
…という感じでしょうか?
今、そのバランスもすごくよいなぁと。

自分の活動はすべてがライヴに向けられている、と以前本人がインタビューに答えていました。アルバムを作るのも、PVを撮るのも、雑誌に出るのも、すべて良いライヴをやるため。
MCナシ、2時間半ヒールで歌って踊って(私は口パクに否定的なタイプではありませんが)、の真剣勝負。すべてをパフォーマンスで返す、そのストイックさは健在。ただ、昔より笑顔が多い印象で、そこは自信ということなのかな、と思いました。

しつこいんだけど、安室さんはその表現やタタズマイ(つまりスタイル)に演歌っぽさが皆無であるというところが魅力のひとつだと思っていて、でも生き様は完全に演歌というか、スポ根というか、なんだろう、とんでもないドラマを背負っているということは想像に難くない。歳を重ねるごとに、そういうのってアピールしがち(あるいは滲んで出やすくなりがち)のはずだけど、安室さんは本当に一貫している。

空から振ってきたリボンとハート。ツアーグッズは買ってません。エライ。


帰って調べたら、安室さんは去年が20周年だったんですね。で、その趣旨のツアーもやっていたんですね。「FEEL」から新しい時代がまたはじまっていく、ということだったのかー。言ってよ。

ちなみに後日まっとりさんから「安室コスの人来てました?」って言われて、安室コスってどんなの?と訊いたところ「サテンのシャツ+厚底ブーツ」という小室時代から更新されていないお答えが返ってきました。そーゆー人はいなかったよ、っていうのと、ツアーグッズのアパレル関係はmoussyがコラボ相手であることをここに記しておきます。

7.12.13

THE PERFECT INSIDER

どなたの台詞か忘れましたが、「立ち読みは家のなかでするのが正解」という言葉についてなるほどと思っているので、本はちょっと気になったら買ってしまう。そのくせ本屋でも立ち読みはする。しかも長時間する。一度、特定の本屋を自分の敷地と想定してみれば、気になったときにその本屋に行って読めばよいのだから(大きな本屋には椅子も用意されていたりする)、買わずに済むのではないかと考えてみたことがあったが、その「ごっこ遊び」は1日も持たなかった。結局、買ってしまう。
買ったはいいが読んでいない本も色々あるけれど、数年間その状態の本をあるとき突然ひらいて、え?意外と面白くない?みたいにどんどんハマる、ということもあるので、それはそれで未来の私に期待している。

311の震災後は、今後の人生を考えたときに、本当に大切なものを少しだけ持っていればそれでいい、そもそも、自分の人生の残り時間を考えたときに、ここ(家)にある本を再読する可能性はどのくらいあるのだろうか…と断捨離モードになったこともあったが、なんというか、今はそうではなく、私は、自分のなかを色々なものが流れていく感覚が性に合っていて、その流れを止めることこそが不健康なのではないか、という結論に至っている。この結論もまた、過程にすぎないとは思うけれど。
余談としては、震災前より「所有している」ということにこだわらなくなった。しかし、これは単純に加齢のせいかもしれない。

さて、私は難しい日本語を理解する能力に欠けているので、文学にも哲学にもあまりのめり込めない自信がある。それは私の脳内にある「じぶん欠点ノート」に列挙されている要素のひとつであり、もちろん自慢ではない。
だから、本屋が好きだし立ち読みが好きだし、さらに買うのも好きなわけで、持っている本もおそらく少ないわけではない(他を知らないから何とも言えないが)けれども、自分のことを「本が好きな人」だと思うことはあまりない。

って、今読んでいる本のことを書きたかったのによくわからないことをこんなに書いてしまった。
最近、敬愛するナガコさんに薦められ、森博嗣の本を読みはじめました。ってことが言いたいだけなんです。もともと、数ヶ月前にたまたま本屋で経ち読んだ森博嗣のエッセイ「常識にとらわれない100の講義」が面白く、この人は信用できるなと思っていた矢先のリコメンドだったので、飛びつきましたね。
よく、作品そのものと作家のキャラクターを切り離して考えられるかどうか、という話題がありますけど、私は完全に切り離せないタイプで(つまり、騙されて壷や印鑑を買わされるタイプ、だと自分では思っているんですけど)、現象を現象としてクールに見ることができない。感情移入したがる。ということなのかなと思っています。そのくせ、天才が好きっていう。矛盾しているようですけど。



まぁそんなこんなで読みはじめた森ミステリ。
膨大な作品量は、ある程度すべてが繋がっている仕組みだからと最初から読むことをアドバイスされ、さらに本来探偵ものとかミステリとか全然興味ないタイプだと思っていたので不安だったんですが、これが本当に止まらない…。2〜3日に1冊読んでしまうペースで、今に至っております。
まだ5冊読み終えたところなんで偉そうなことは言えないのですが、森さんの本でとても興味をそそられるのが、文系か、理系か、という話。いや、そもそも理系って何なんだ。というお話。似たようなお題で、右脳か、左脳か、というのもありますよね。文中にそういう話題が出てくるわけではなく、脳内でそういう議論が勝手にはじまるというのでしょうか。

森さんの表現は「理系」と捉えられることが多いように思うのだけど、内包しているものはそうだとしても、アウトプットがすごく文学的…というか……、抽象的ということなのかもしれないのですけど。いや、文章はこの上なく具体的で、表現している内容もひとつなのですが、その温度感、テクスチャーのようなものが本当に心地よいんですね。理系・左脳って論理的で理屈っぽくて、なんか夢のないコンピュータみたいな仕組みで、自分が多少そっちのタイプというのは自覚しつつも、嫌だなぁ、右脳で文系のアーティスティックな感じに憧れるわー、とか思い続けて生きてきましたが、あれ、違ったかもなって。理想はこれかもって。

なんか、理系とか左脳を色んな意味で誤解していた、という気になりました。
実は理系のほうがロマンを追い求めてるんじゃないのか。って当たり前?何を書いてるのかよくわからなくなってきてしまいましたが。そして自分は結構右脳系なのではないか…という。比較の問題なんですけど、左脳が羨ましくなると脳内の右脳度が増えるみたいなこの状態、何なんですか。

しつこいようですが、まだ5冊。でもあえてこの立ち位置から言わせていただきますと、ダントツに「すべてがFになる」が面白かった。他のも良いのですが「そーゆー仕組みかー!」みたいな面白さだけではなく、もっと度肝を抜かれる感じです。
いずれにしても全編通して、サイコ・ホラーかすってる感じも素敵で、狂人みたいなのはひとりも出てこないのですが、人物描写が巧みすぎる。
そして私はやっぱり天才が好きなんだな、と思うのであります。その天才とは「すべてがFになる」の登場人物四季であり、その人の再登場を心待ちにしながら読み進めている節もおおいにあります。

ちなみに森博嗣は、最初の4冊をそれぞれ1ヶ月ずつで書き切っている。本業は大学の工学部助教授なんですから、どういうことなんでしょうか?
なんか、こういうタイプの男性が好きなんだなと思います。そこに、わざわざ私との関係性なんかを色々考える必要がないので(森博嗣の場合は当たり前ですが)、既婚は楽だな、というオチで終了とします。



28.10.13

Healing Salon SOMI

あなたらしい魅力を引き出す、とか、内側にある本来の魅力を目覚めさせる、といった表現がある。
ひとはひとりひとり違う人間で、あなたにはあなただけの魅力がある。だからそれを大切にしてくださいね、と言われたとき、いったいどれだけのひとが素直に無理なく「わかりました」と思えるのか。
もちろん理屈ではその通りだとわかる。私以外の誰かにはなれない、という事実が依然としてそこにあるとき、「ならば、自分らしい魅力を磨きたい」と思えれば、そのひとはきっと、すごく素敵になれる。そんな思考の流れは理想的で、かつ、まぁなんというか、それが本来だよね、というべきもののような気がする。
気がする、のではありますが、じゃあ、その磨きかたって、いったいどこで習得するのだろうか。







友人の生田和余さんが「Healing Salon SOMI」というサロンを乃木坂にオープンした。彼女は30代に入ってからこの世界に転身したにもかかわらず、完全にこれが天職でしょ、という感じのものすごい技術をみせてくれる。施術を受けていると「エネルギー」や「ヒーリング」というものについて考えずにはおれなくなる。

例えば、サロンでマッサージを受ける。そのとき、こわばっているコリのようなものをほぐしてもらったり、淀んでいる血液やリンパなどの流れを刺激してもらったり、揉み出してむくみを解消してもらったり、ザラザラ・ゴワゴワの肌をなめらかにして、透明感をもたらしてもらったり…ということを期待する。更には、痩せて、若返って、美しくなることを。

SOMIの場合、そういったことは単純に「結果として」叶う。いわゆる副産物のようなものでしかない、と私は思う。

わたしたちのからだ(そしてこころ)は、自分が意識しない部分で色々なことをやってくれている。
例えば食事。どんなものをいつどこで食べるかということは顕在的意識によって行われるが、それが体内で消化され、血肉となるプロセスについては、無意識下で行われる。傷の治癒なんかもそう。意識的に切り傷を負ったとしても、その後の出血からかさぶたとなり、完全に治癒していくプロセスは、やはり意識の表層下で行われる。

彼女のマッサージを受けていると、そういった、自分の意識の表層下に働きかけてくれているんだな、という実感を持つ。まるで、細胞(のようなもの)に直接話しかけてくれているような。
わたしたちの顕在的意識は、自分の細胞(のようなもの)と会話することがむずかしい。でも、彼女はそれをごく自然にやってのけてくれている、という感じがする。
誰だって、無視されるのはさみしい。気にかけてもらったり、いたわってもらったらうれしい。細胞(のようなもの)だって同じなのだと思う。そこに、彼女は手を差し伸べてくれる。だから、細胞(のようなもの)もそれに応え、いきいきと健康で美しい状態に向かう。それは強引にこの肉をあっちに移動する、といった類のものではなく、おだやかで、でもとてもパワフルなものであると思う。その結果として、自動的に上記のようなマッサージの効果があらわれる。
そんな状態だから、変な言い方なのだけど、彼女の施術中、どことなく意識が「ヒマ」を感じることがある。もちろんマッサージはとても心地よく、至福を感じて余りあるくらいなのだけど、彼女が私の細胞(のようなもの)にアクセスしているから、顕在的意識は手持ちぶさた状態、とでも言いましょうか。しかしこれは私の感覚に過ぎず、友人などは施術中に号泣してしまったと言っていた。それはそれで、細胞(のようなもの)、つまり潜在意識にアクションしているからこその反応なのだろうなと思う。

そして思う。「自分の内側にある魅力」っていうのは、意識の表層下(の細胞、のようなもの)にあるのではないか、と。

美しくありたい、と願うとき。今よりもベターでありたいと思うとき。つい、今の自分に何かを足そうとしてしまう。それは保湿クリームであったり情報であったりする。もちろんそれも大切なことではあるが、それだけでは意識の表層下には効果的に届かない気がする。そこにアクセスしてこそ、はじめて「自己の魅力を目覚めさせる行為」と言えるのではないか。

SOMIの生田さんはいつも、時間が許すならいつまでも施術をしていたい、と言う。どんなに長くても決して疲れないし、施術中、対象が愛おしくて泣いてしまうこともしばしばあるという。
彼女はもともと感極まりやすい美女であり、この話を最初に聞いたときは、まぁよくもいろんなことで感激できるもんだなと感心したものだけれども、先日エネルギーワークの講師が「施術している人が泣くということは、その対象のかわりに泣いてあげているということなんですよ」と言っていて、妙に納得。泣けない人のかわりに、深いところにある悲しみやこわばりを生田さんが取り除き、自分から外に放出しているということなんだな。

だから彼女の施術を受けたあとは、憑き物がとれたようにすっきりと軽い。頭もクリアで、表情も明るくなる。しかも、それが続く。だから、また行きたくなる。

私が行きたがるというより、自分の内側から「また行こうよ」って言われているみたいな。愛する子どもとの大事な約束みたいな。そんなものが後押しをする。


長くなってしまいましたが、ご興味あるかたはぜひ一度足を運んでみてください。
私は今回、ラストーンセラピー(石を使った施術)を受けましたが、スラヴィックマッサージも、フェイシャルリフレクソロジーもすべてお墨付き。ピンと来たコースをどうぞ。
アクセスも便利なところです。






30.8.13

usurebi / ropes


それは、過去への郷愁といったものとは違って、かといって未来への希望のようなものでもない。
なんだかわからないけど、理由もないまま、ただ、涙がこぼれる。
哀しいのか、うれしいのかさえわからない。むしろそこに感情はない、のかもしれない。少なくとも喜怒哀楽では表現できない、ただ何か、うねりのような、勢いのようなものがある。衝動的ななにかが。
でも、その感極まった状態の内側はすごくしんとして、深い静寂に満ちている。
そして、そういったものすべてが、何かあまく切ない、幸せに満ちた、でもはかない、シャボン玉のようなもので包まれている。

アチコちゃんの歌、特にRopesの音楽を聴くと、いつもそういう気持ちになる。
いつまでもこのままでいたい(いられないことはわかっている)、という気持ちになる。




もうすぐ、ropesの新譜が発売される。
アートワークはマイ弟(血縁関係なし)神林大地!ひゅーひゅー。


先駆けて「パノラマ」のPVが公開されています。
これを見て、まさに脳内の「外側のシャボン玉の色」と「内側の深い静寂の色」で構成されていたのでびっくりした。





私がどれだけアチコちゃんを好きか、を語るのはまたの機会に。
発売おめでとう。



24.5.13

「THE END」、みてきました。





THE END、みてきました。

言葉にするのはすごく難しいのだけど、やってみます。

私が渋谷さんの表現に対していつもすごいなと思うのは、「開かれている」というところなんですね。わかるひとだけ見てくれればそれでいいんで、っていうふうには絶対にならない。そこに圧倒的なPOPさがある、というか。
でもそれは、あっけらかんとしている、というのとは全然違って、ものすごく精妙で緻密なものなんですよね。レイヤー感が半端じゃない。だからこそ、受け取る側が自分の周波数で共感(というと語弊があるかもしれないけど)することができる、なにかを必ず受け取ることができる。ということなんだろうなと思っていて。
そういうところが本当に好きです。

というのがまずひとつあって。

THE END」は、第六感のみが過剰にある世界、という感じがしました。
もちろん音があって、ことばがあって、映像があって、空間があって…なのだけど、それらの要素が全部、そのままの意味を帯びてない、五感を越えた世界。というのでしょうか。

これはミクでなければつくれない世界観だったのだろうなと思う。

個人的には、「for maria」以降の渋谷さん、というか。「for maria」ってソノリウムのライヴのほうの、ですけど。というかそれはつまりmariaのことがあってから。というか。
渋谷さんはどんどん音楽をつくりながら(生きながら)自分自身を切り取って、削いでいっているようなところがあって、このままでは渋谷さんが無くなっていってしまうのではないか、というふうに感じていたこともあったのだけど、もちろんそうではなくて、だから今があるのですが。
でも、なんというか、実は本当に削ぎきってしまっていて、五感の(生身の)部分=記憶の蓄積=過去、を全部落として、それを越えた、第六感のみの新しい自分になったのかもしれない、なんて思ったりした、「THE END」を体感して。

というのは、「サクリファイス」あたりからの、特に女性の声を媒体にしたときに起こる、「どうしようもない刹那が完全なプラスティックでできている感覚」みたいなものがすごい特徴的だと思っていて。プラスティックってすごくアイドルに求められる要素だと思うのですが(だからこそ「サクリファイス」にはどこか懐メロ感があるのだと思うんだけど)、それは無感情とか無表情とかドライとかってことではなくて、なんかもっと、完全に新しいもの。見たこともないもの。未来の象徴みたいなもの。で、スーパークリーンありながら、深く刹那的、という。それは何か、人工的でこころがない、とかってことではなくて、むしろその逆で、でも演歌っぽい生身さとは真逆で…。

その究極が「THE END」なのかな、と。
だから生身の人間でこれはできなかったのかな、と。色々なものが追いつかなくて。

音も映像も演出もことばもなにもかも、めちゃくちゃかっこよかった。かっこよすぎた。でも、ウギャー!カッコイイ!アドレナリン出まくり!とかではまったくなく、逆に感情はどんどん自分の内側に閉じ込められ、解放できなくなっていった…?それすら自覚できず、血が逆流して、思考は停止した。これは何?と思う暇さえもなかった、いや、思っている自分がどこかに迷い込んでみつけられない、という感じ。
見終わって4時間くらい経つけど、まだ腕がしびれたまま。です。

それから、これ、何かに似ているなーとずっと思っていたのですが、奈良美智さんがAtoZをやったときの感じだな、と腑に落ちました。ずっとひとりで作品をつくり続けてきた奈良さんが、豊島さんとgrafに出会って、部屋とか家とか街のような表現ができるようになったあの感じ。
THE END」チームの結束、信頼関係、才能の強度は半端ないんだろうな、と思います。

明日、見れないので、パリでもう一度見たい。