「THE END」、みてきました。
言葉にするのはすごく難しいのだけど、やってみます。
私が渋谷さんの表現に対していつもすごいなと思うのは、「開かれている」というところなんですね。わかるひとだけ見てくれればそれでいいんで、っていうふうには絶対にならない。そこに圧倒的なPOPさがある、というか。
でもそれは、あっけらかんとしている、というのとは全然違って、ものすごく精妙で緻密なものなんですよね。レイヤー感が半端じゃない。だからこそ、受け取る側が自分の周波数で共感(というと語弊があるかもしれないけど)することができる、なにかを必ず受け取ることができる。ということなんだろうなと思っていて。
そういうところが本当に好きです。
というのがまずひとつあって。
「THE END」は、第六感のみが過剰にある世界、という感じがしました。
もちろん音があって、ことばがあって、映像があって、空間があって…なのだけど、それらの要素が全部、そのままの意味を帯びてない、五感を越えた世界。というのでしょうか。
これはミクでなければつくれない世界観だったのだろうなと思う。
個人的には、「for maria」以降の渋谷さん、というか。「for maria」ってソノリウムのライヴのほうの、ですけど。というかそれはつまりmariaのことがあってから。というか。
渋谷さんはどんどん音楽をつくりながら(生きながら)自分自身を切り取って、削いでいっているようなところがあって、このままでは渋谷さんが無くなっていってしまうのではないか、というふうに感じていたこともあったのだけど、もちろんそうではなくて、だから今があるのですが。
でも、なんというか、実は本当に削ぎきってしまっていて、五感の(生身の)部分=記憶の蓄積=過去、を全部落として、それを越えた、第六感のみの新しい自分になったのかもしれない、なんて思ったりした、「THE END」を体感して。
というのは、「サクリファイス」あたりからの、特に女性の声を媒体にしたときに起こる、「どうしようもない刹那が完全なプラスティックでできている感覚」みたいなものがすごい特徴的だと思っていて。プラスティックってすごくアイドルに求められる要素だと思うのですが(だからこそ「サクリファイス」にはどこか懐メロ感があるのだと思うんだけど)、それは無感情とか無表情とかドライとかってことではなくて、なんかもっと、完全に新しいもの。見たこともないもの。未来の象徴みたいなもの。で、スーパークリーンありながら、深く刹那的、という。それは何か、人工的でこころがない、とかってことではなくて、むしろその逆で、でも演歌っぽい生身さとは真逆で…。
その究極が「THE END」なのかな、と。
だから生身の人間でこれはできなかったのかな、と。色々なものが追いつかなくて。
音も映像も演出もことばもなにもかも、めちゃくちゃかっこよかった。かっこよすぎた。でも、ウギャー!カッコイイ!アドレナリン出まくり!とかではまったくなく、逆に感情はどんどん自分の内側に閉じ込められ、解放できなくなっていった…?それすら自覚できず、血が逆流して、思考は停止した。これは何?と思う暇さえもなかった、いや、思っている自分がどこかに迷い込んでみつけられない、という感じ。
見終わって4時間くらい経つけど、まだ腕がしびれたまま。です。
それから、これ、何かに似ているなーとずっと思っていたのですが、奈良美智さんがAtoZをやったときの感じだな、と腑に落ちました。ずっとひとりで作品をつくり続けてきた奈良さんが、豊島さんとgrafに出会って、部屋とか家とか街のような表現ができるようになったあの感じ。
「THE END」チームの結束、信頼関係、才能の強度は半端ないんだろうな、と思います。
明日、見れないので、パリでもう一度見たい。