ジブリが好きかと言われると、割と微妙で。
全作品網羅しているわけでもなく。あ、でも駿作品は全部観ているのかな。
もちろん、好きな作品は色々あるけれど、いざ観返してみると、あれ〜みたいな。そうでもなかったりして。最終的にはいちばん好きなの、ナウシカの漫画かな〜とかうそぶくところに落ち着いております。しかもクシャナが好き、みたいな。
そんな私も小学生時代はナウシカのポスターを部屋に貼っていた(南野陽子の隣に)し、千と千尋なんかも当時ものすごくハマったのです。が。
まぁ私も歳をとりまして。
思うのは、ジブリ作品に対峙して意識すること(また、おそらく好みのテーマ)が、私にとってはずっと「正義とはなんぞや」だったんですよね。で、主人公は正義を体現する存在であり、そこに共感することがジブリの醍醐味だったというか。
その感覚が生きていたときは、ジブリ好き!って少なからず思っていたのですが、最近の私はそういうことにあまりフィットできなくて。
というのが、「必ず正しいこと」って果たしてあるのかなということを、よく思うようになったのです。
「性善説」と「性悪説」でいうならば。
私はずっと「性善説」派。
なんだかんだ言ったって、そんなに悪い人はこの世にいないはずだ、と思ってしまう。だからこそ、何か残忍な事件、残酷な出来事に出くわしたとき、その理由を知りたくなる。そういうことをする人の心理や生い立ちを知りたくなる。それは、「本当はいい人なのに、何か避けられない元凶があってこうなってしまったのだ」ということを、自分のなかで納得したいからに他ならない、という。だから、その元凶のようなものを取り除いてあげることで、「間違っている自分から目覚め」、「気づき」、「更生する」…といったようなことを確信しているふしもあっただろうな、という。
今も基本、そういう部分は変わらずありつつも、そもそも善とは何なのかな、と思うようになった30代後半、なわけです。
それにはやっぱり震災のことがきっかけとしてあると思うのだけど。
震災後、無関心だった自分を反省し、「正しい生き方」を少なからず模索した、ように思います。自分なりに。でも、その過程で。例えば、都合の悪い真実を隠蔽する巨大な力、無力な民衆を愚鈍にしていくシステム、そんなものが見えたとして。自分はどうするべきなのか。何をよしとするのか。つまり正しい生き方ってどんなものなのか、というのがスッキリ出てこなくなってしまった。
生きれば生きるほど。という感じで。
今の時代が不安定だからとかいうことでなく、単純に自身の内側にあるなにかが変容してきているということだと思う。変わってきているというより、広がって、人格が増えてきているというか。自分の発言に責任を持ちたいからこそ、真逆のことを言う可能性を常に自覚していたい、みたいな感じがあります。
ダイエット広告とか見ても思うのですが、全ての人に対する正解ってないよね、というか。誰でも痩せてキレイになれる方法があったらみんなやっていると思うんですよね。そもそも痩せているほうが美しいという大前提は何なの?みたいな。そういう感じでしょうか。
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で、「かぐや姫の物語」です。
観る人によっていろんな想いを胸に抱く作品だろうな、と思える映画であったことは間違いなく、ジェンダーの問題、親子の問題、まぁいろんなテーマが内包されているのかもしれないのですが。個人的にはそういうところにあまりピンときておらず。多分性別というものに対する意識が元々薄いのだと思いますが。
最初に思ったのは「竹取物語ってこんないい話だった?」ということでした。
私がずば抜けて感動したのは、月の人と地球人の対比の部分です。
月の人にはおそらく、悩みもなく、争いもなく、貧困も空腹も殺意も病気も誤解も苦悩も嫉妬も野心も、おそらく死すらないのでしょう。言語の隔たりもなくテレパシーで会話ができ、平和で満たされた人種。そんな彼らから見れば、当然地球人は野蛮で無知で浅はかで、ストレスだらけで不毛な存在でしょう。私たちにとっての地獄のようなものかもしれません。
だからこそかぐや姫が地球に憧れることが罪となり(そんな月にも善悪はあるようです)、そこに送り込むことが罰となるのでしょう。
でも、月の人がかぐや姫を迎えに来るシーンで、すごく感じたのですが。
月の人たちが全然魅力的に見えないんですよね。
なに不自由なく、神のように全能的な存在の彼らは、雲のようなものに乗って、音楽を奏でながら、かぐや姫が居るお屋敷にやってきます。
屋敷ではなんとしてでもかぐや姫を渡すまいと守る人たちが、矢を放ち、城壁を高くして応戦します。が、放った矢は月の人によって花に変えられてしまう。人々は気を失わされ、扉はやすやすと開かれて、かぐや姫は宙に浮き、月の人たちのもとへ連れていかれてしまいます。
かぐや姫は抵抗します。そのとき、地球の人たちが精一杯の「彩」をもって生きていることの魅力を語り、月の人たちを説得します。自分をもう少し地球に置いてほしいと。
しかしやむなく天の羽衣を着せられて、かぐや姫は地球の記憶を消されてしまいます。
で、まぁ帰っていくわけですが。帰る道すがら、記憶を無くしたはずのかぐや姫が青い地球を振り向いて、一筋の涙を流す——っていうのは、まぁもうどうでもいいとして。
月の人にとっての罪と罰は、地球の人にはまったく共感できないものとして描かれます。当たり前ですけど。自分たちの地が野蛮で未熟であると決めつけられていることに対する屈辱みたいなものというよりは、もう、わけわかんない、理解を越えている、勝手すぎる、というのが本当のところだろうなと思うのです。
たぶん、月の人の世界はひとつの桃源郷だと思うのです。この世にいる人間にとって。辛いことが何もない完全な世界なのですから。地球人が欲しがっているものは、月にすべて揃っていることでしょう。それにもかかわらず、月の人は無表情(あるいはアルカイック・スマイル)をたたえ、なんだかとってもつまらなそうです。
さらに、月の人たちが奏でている音楽の白々しいこと。いいメロディでトランス感たっぷりの「酔わせる」音楽なのです。対する地球の子どもたちが歌っている音楽に、なんと力強い「生きている」感があることか。
——というところまでひとしきり観て、結局私たち人間は、好きこのんで、この矛盾だらけの、感情にまみれ、善と悪をこねくりまわして、笑い、泣き、怒り、楽しみ、傷ついて強くなり、幸福と不幸を味わう世界に居るのだな、ということがよくわかりました。
もし、月の世界に連れて行ってあげるよ、と言われても「まだいいです」と答えてしまうでしょう。まだこのどうしようもない世界を生きさせてほしい、そうかぐや姫のように答えるでしょう。
そして、いずれは迎える死のときまで、人生をチャレンジしてみたい、という欲求が自分のなかにあるんだな、ということを自覚するのです。そして、愛と善は違うもので、愛は無条件のものであるということにも、改めて思い至るのです。
というところが私の感動ポイントだったため、映画前半はむしろギャグ漫画&女童のPVとして楽しませていただきました。前半/後半のコントラストにびっくりです(自分比)。
そしてもうひとつ、今まで観たジブリ映画のなかで、このかぐや姫がもっとも等身大の主人公なのではないか、と感じました。どこかに違和感を持ちながら、日々を生きる姿。なじめない、溶け込めきれない自分、期待に応えたいのに難しい自分を持て余し、自分のなかでの善悪と葛藤する姿。美しいとかモテるとかいう人間離れしたエピソードが目立つかぐや姫ですが、誰よりも彼女を地球人(人間)として、生きる魅力にあふれる存在として描いているように思いました。だから共感もおおいにしました。
ま、私は求婚ってされたことないんだけど。
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「物質界、つまり、この現実の世界は、一番こわい恐怖映画なのです。そしてみんな、恐怖映画が大好きなのです。もし、私達のバイブレーションのレベルから観た宇宙が幻想にすぎず、ほんの一部しか真実でないとすれば、恐れたり悩んだりせずに、もっと人生を楽しみ、愛した方がずっと利口だと思いませんか?」
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ほしい。 |
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